アカコの備忘録。


by sarutasensei
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2006年 08月 17日 ( 1 )

f0091834_17175988.jpg●齋藤一『帝国日本の英文学』(人文書院)

※特に第四章「日本の『闇の奥』」に期待してたんだけどな。まあ、前半はおもしろく読んだんだけど。1940年に中野好夫がコンラッドの『闇の奥』を翻訳出版したことに対して、「西洋植民地主義批判のテクストを日本植民地主義批判として読みかえることを可能にするヒントを与えていた」(p.108)と解釈する箇所(ここがこの論文のポイントなのだ)は、同意できない。
 齋藤は、その根拠として、中野が採用した「恭順蛮人」という言葉に着目し、それが霧社事件や日本の植民地統治を想起するはずだ、という。それではコトの半分しか言い当ててはいないし、「この言葉の使用は結局のところ、当時の国策に合致したものではなかった」(p.117)に至っては、???てな感じ。

 たしかに「蛮人」「蕃人」というターム(「蕃人」が普通だろうけど)、は、戦前の日本では、台湾の原住民を指すことがほとんどだろうし、霧社事件が衝撃的な事件だったのはまちがいない。だけど、1940年の時点では、霧社事件で蜂起した原住民の後裔は、なおのこと「恭順」の意を表明せざるを得ないほど、植民地統治は「完成」されていた。また、霧社事件を引き起こしたタイヤル族だけでなく、30年代には、ブヌン族の「兇蕃」が「帰順」し、「恭順」の態度を明らかにしていた。こんなニュースは、総督府の『理蕃の友』を眺めれば、いくつも出てくる。
 高砂義勇隊の南洋派遣はまだ行われていないものの、日中戦争に「軍夫」として「血書志願」するという「美談」も、竹内清の『事変と台湾人』なんかを見れば、ちゃあんと掲載されている。
 つまり1940年に中野が『闇の奥』を翻訳した時点では、「恭順蛮人」という言葉は、齋藤が言うように霧社事件そのものを想起させるというよりは、「その後」の統治の「成功」を示すものとしてストレートに受け止められた、と考える方が、「状況証拠」からすれば、よほど「自然」なはず。
 おそらく齋藤は、台湾における「恭順蛮人」ということばが喚起するイメージではなく、日本「内地」のそれを読みときたいのだろうが、これまで述べたようなことを押さえておくことは、最低限不可欠の作業だと思うけど。

 それにしても、いくら英文学が専門とはいえ、『理蕃の友』みたいに簡単に入手できる基本文献も使っていないなんて、ちょっとマズイんでないの?
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by sarutasensei | 2006-08-17 22:50 | 読んだ本