人気ブログランキング | 話題のタグを見る

アカコの備忘録。


by sarutasensei
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

最悪のプロパガンダ。

最悪のプロパガンダ。_f0091834_22271975.jpg●山口仲美『日本語の歴史』(岩波新書)

※いまだに「母国語」などと書いて恥じることがない言語学者がいることを知った。
日本語という素材を大切にし、いつくしむ心が、結局は人類を豊かにするわけです。国家主義ではありません。それぞれが自らの創意工夫を凝らしてつくりだした文化を大切にしあうことこそ、人類を救うと私は信じているのです。そして、この認識を持っていれば、他民族に自国の言語を強要したりするようなおろかな真似をしないと信じているのです。(略)私たち人間は、よって立つところの母国語がなければ、文化をつむぎ出せないのです」(p.6)。

 何かを「信じる」のは本人の勝手だとはいうものの、田中克彦の『ことばと国家』が、同じく岩波新書から出たのが1981年。あの本で「母国語」なんて言葉は、完膚無きまでに批判されていたというのに。1943年生まれの著者・言語学者が、あの本を知らないなどということはありえない。

 たとえば、日本語の「強要」という「おろかな真似」によって、滅ぼされつつあるアイヌの言葉の存在を著者は知らないのか?日本国籍を持つ/持たされている北海道アイヌにとって、「母国」とはどこなのか?こういう現在進行形の事態に目をふさぎ、「国家主義ではありません」などと、カマトトぶって、「人類を救う」などと言うのだ。ヤメテケレー!おそらく著者の考える人類に、アイヌは入っていないに違いない。だから「日本語の歴史」に何があったのか、「信じる」だけで歴史を繙こうとはしないでいられるのだ。

 アイヌだけではない。「日本語」という概念の成立にとって植民地領有が持っていた決定的な意味など、全く語ろうとしない。それでいて「日本民族」によって「日本語」が、はるか昔から連綿と話されていたかのようなノーテンキな言説だけは、なんの検証もなく垂れ流される。東北ではどうだったのか?九州では?まさか江戸と上方しか、「日本語」の話者がいなかったわけではないだろうに。

 本書の最後は、「日本語には、遠い昔の日本人からの代々の熱い血と切なる思いが流れている。私も、彼らの残してくれた日本語の遺産の恩恵に浴して生きているのだと。その熱い思いをみなさんにもお伝えできたらと思っています」(p.222)と結ばれる。こういう発想を、「国家主義」と言わずに、なんと言うのだろう。 
by sarutasensei | 2006-08-08 22:52 | 読んだ本