殺人者とその後裔が統治する国で。
2006年 08月 03日
●文富軾『失われた記憶を求めて-狂気の時代を考える』(現代企画室)
※著者の文富軾は1982年に釜山アメリカ文化院への放火事件を起こした首謀者。戦後韓国の「記憶」をめぐる論考は、とても示唆に富む。
1980年の光州虐殺事件は、20年後には金大中大統領によって、歴史の犠牲者だと認定された。だが文富軾は、その時に殺された光州の市民も、軍部の命令に従い彼らに発砲した空挺隊員も、「全員歴史の被害者だということば」(p.162)に「巨大な嘘」を見出す。
靖国をめぐる、あまりにも低レベルな議論を見聞きするにつけ、単に隣国のオハナシだと気軽に読み飛ばすことはできない本だ。
※著者の文富軾は1982年に釜山アメリカ文化院への放火事件を起こした首謀者。戦後韓国の「記憶」をめぐる論考は、とても示唆に富む。
1980年の光州虐殺事件は、20年後には金大中大統領によって、歴史の犠牲者だと認定された。だが文富軾は、その時に殺された光州の市民も、軍部の命令に従い彼らに発砲した空挺隊員も、「全員歴史の被害者だということば」(p.162)に「巨大な嘘」を見出す。
いま自ら「暴力なき国家」を自認する「国民の政府」が、積極的に光州を記念し物質的に補償した。これによって一時代のスケープゴートだった光州の死は、その無念さを捨て去って聖なるものとなったのだろうか。あるいは、フランスの思想家ルネ・ジラールが明らかにしたように「聖化」は暴力を隠すための祭儀の形式にすぎないのか。私たちもまたこれに賛同することによって沈黙のうちに共犯者となるのではないか。(p.162)
靖国をめぐる、あまりにも低レベルな議論を見聞きするにつけ、単に隣国のオハナシだと気軽に読み飛ばすことはできない本だ。
今も私たちからそれほど遠くない場所で何事もなかったかのように暮らしているこの殺人者たちにとっては、何よりも罪意識自体、あるいは罪を罪として認識することのできる能力自体がないのではないかと疑ってみなければならないのではないだろうか(p.223)。
by sarutasensei
| 2006-08-03 20:19
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